ネットウヨと農村居住者の関係について書いたら(その1 ,その2 )好評(?)だったみたいなので、もう少しきっちり考えてみたいなと思っていた。恰も良し、内田先生がいい材料を提供してくださった。
内田樹の研究室: ナショナリズムと集団性: "若い世代に瀰漫するナショナリズムと格差社会の関係について、大学院で渡邊仁さんの発表を聴きながら考えた。"裨益するところ、多大。
散人流の抜粋:
今まで散人が思っていたことをほとんど言ってくれる見事な論調(散人の昔書いた主張も見てください)。しかし、ちょっと困った。これ では「ナショナリスト=ヒャクショウ」という散人の仮説が支持されないのだ。つまり、日本における農村既得権益者団体は、今や日本最強の政治圧力団体であ り、経済的にも農林統計協会の調査によると都市勤労者をはるかに上回る所得を享受している押しも押されぬ「強者」である以上、この理屈で言えば、「ナショ ナリストなんかにはなる必要がない人たち」ということになってしまう。どう考えればいいのだろう?
二つ考えられる。まずひとつは、「ヒャクショウ」とは内田氏の言う「強欲 な強者」であるというい仮説。自分たちがなお一層豊かになるために「都市部のアホな下層ウヨたち」を味方に取り込んで、自分たちの政治的野望を実現させよ うとしているということ。あり得ないことではない。
もう一つは、「ヒャクショウ」とは古いタイプのナショナリストであるとい うこと。内田氏が冒頭に言っているように、内田氏は「新しいタイプ」のナショナリストを分析されている。でも、昔の「古いナショナリスト」は、南北戦争や フランス革命のころを見てもわかるように、産業政策論者であった。外国からの競争を排除することで自国産業の発展を目論んだ。その結果、消費者は高いもの を買わされることで損をするが、これは国益に利すると強引に論じる。消費者が自分たちの生産物しか買えない状況を作り出すことこそ、古いタイプのナショナ リストが必死で追及していたことだ。今の農業団体の主張に相当近い。
結局、この二つのことが重なり合って、いまの「農村ナショナリズム」がで きているのだと思う。言えることは、その「農村ナショナリズム」に利用されるだけの「都市弱者ナショナリスト」は、自分たちのクビを自分でしめているだけ のことで、とてもかわいそうということ。早く目覚めたほうがいい。
抜粋に入れなかったが、内田先生は、「所属する集団の大きさ」を損得勘定 を考える際に重要なポイントと指摘されている。大きすぎても小さすぎてもいけない。その点「農協」という組織は実にうまくできていて、小さな集団の強みと 巨大な集団の強みを柔軟にコンバインすることができる組織だ。しかも、うまく独占禁止法の規制を逃れている。とても恐ろしい存在である。
- 新たなナショナリズムの担い手はつねに「弱者」である。「物心両面で支援してくれるような社会集団に帰属していな い」がゆえに「さっぱり受益機会に恵まれない」という個人的事情から、ナショナリズムが必要だ。
- それに対して、いわゆる「強者」は(国民的統合が果たされていない)ステイタス・クオから十分な利益を得ている。現 状で十分に受益しているからこそ彼らは「強者」と呼ばれているわけである。だから、「強者」は別に国民的統合の達成が喫緊の政治的課題であるとは思ってい ない。
- 思っている「強者」がいるとしたら、それは「ナショナリズムの亢進からさらに利益を得よう」と望んでいる「強欲な強 者」(石原慎太郎とか安倍晋三とか)だけである。
- 「いまは持っていない」受益機会を生み出すと信じている「弱者」と、「いま持っている」受益機会をさらに増大すると 信じている「強者」の連合によってナショナリズムは亢進する。
- 少なくとも現代における「強者」たちはほぼ例外なく「集団に深くコミットしていること」の代償として豊かな受益機会 を享受している。
- 現代における「弱者」たちはほぼ例外なく集団に属していない。久しく「スタンドアローンであること」の有利さだけを 教え込まれた育った若者たちが、そのような生き方がさっぱり受益機会の増大に資さないことに、成人した後に気づいて、いま愕然としている。愕然として、思 わずしがみついた先がナショナリズムなのである。
今まで散人が思っていたことをほとんど言ってくれる見事な論調(散人の昔書いた主張も見てください)。しかし、ちょっと困った。これ では「ナショナリスト=ヒャクショウ」という散人の仮説が支持されないのだ。つまり、日本における農村既得権益者団体は、今や日本最強の政治圧力団体であ り、経済的にも農林統計協会の調査によると都市勤労者をはるかに上回る所得を享受している押しも押されぬ「強者」である以上、この理屈で言えば、「ナショ ナリストなんかにはなる必要がない人たち」ということになってしまう。どう考えればいいのだろう?
二つ考えられる。まずひとつは、「ヒャクショウ」とは内田氏の言う「強欲 な強者」であるというい仮説。自分たちがなお一層豊かになるために「都市部のアホな下層ウヨたち」を味方に取り込んで、自分たちの政治的野望を実現させよ うとしているということ。あり得ないことではない。
もう一つは、「ヒャクショウ」とは古いタイプのナショナリストであるとい うこと。内田氏が冒頭に言っているように、内田氏は「新しいタイプ」のナショナリストを分析されている。でも、昔の「古いナショナリスト」は、南北戦争や フランス革命のころを見てもわかるように、産業政策論者であった。外国からの競争を排除することで自国産業の発展を目論んだ。その結果、消費者は高いもの を買わされることで損をするが、これは国益に利すると強引に論じる。消費者が自分たちの生産物しか買えない状況を作り出すことこそ、古いタイプのナショナ リストが必死で追及していたことだ。今の農業団体の主張に相当近い。
結局、この二つのことが重なり合って、いまの「農村ナショナリズム」がで きているのだと思う。言えることは、その「農村ナショナリズム」に利用されるだけの「都市弱者ナショナリスト」は、自分たちのクビを自分でしめているだけ のことで、とてもかわいそうということ。早く目覚めたほうがいい。
抜粋に入れなかったが、内田先生は、「所属する集団の大きさ」を損得勘定 を考える際に重要なポイントと指摘されている。大きすぎても小さすぎてもいけない。その点「農協」という組織は実にうまくできていて、小さな集団の強みと 巨大な集団の強みを柔軟にコンバインすることができる組織だ。しかも、うまく独占禁止法の規制を逃れている。とても恐ろしい存在である。
Posted: Wed - April 26, 2006 at 05:29 PM Letter from Yochomachi 名言(迷言)集 Previous Next Comments (4)
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